京阪園芸の伝統 – 003 数々の試練

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京阪園芸の伝統Traditional Culture

菊人形展に欠かせない存在である菊培養師。
京阪園芸に受け継がれる栽培技術の進歩はどのような歴史を辿ってきたのか?
川井 ゆう氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.14 2018年秋冬号)からの転載記事でご紹介致します。

数々の試練

菊人形は、江戸時代の終わり頃からである。そして現在も存在する。およそ170年。とても長い。日本において菊人形見物は、あって当たり前の娯楽だった。

しかし考えてみてほしい。菊人形の衣装は生きた菊である。通常ではありえないシロモノである。菊培養師や菊師はそのありえないことを可能にしてきた。特に菊培養師は、2、3ヵ月という長期間の興行に備えなければならない。またかつては100体にも及ぶ大規模な菊人形展のために、大量の人形菊が必要だった。

このような栽培を毎年求められているとき、別の場所で大きな規模の菊人形展を開催してほしいと言われたら、しかも「急に」言われたらどうだろう。有名なひらかたパークには時々、菊人形製作の依頼が舞い込んだ。

菊に限らず植物は、言われてすぐに大量に用意できるものではない。その上、菊培養師はその年の菊人形展が終わるとすぐに、翌年の人形菊の準備にとりかかる。菊培養師は一年中忙しいのである。それに人形菊を「別天地」で育てることも容易ではない。土が変わり水も変わる。日当たりも変われば、気候も変わる。

残念ながら、「急な」ご依頼はお断りするしかない。

しかし京阪の菊人形の歴史には、菊培養師にとって思いもかけない試練があった。

1度目は大正元年(1912)。香里遊園で明治43年(1910)に始まった菊人形展だったが、香里の地を住宅地にするため、場所を枚方に移すことになった。

2度目は大正8年(1919)。興行主などとの関係で宇治に移された。

         

3度目は大正12年(1923)。宇治の菊人形館が火災に遭った。再び枚方へ。

         

4度目は昭和21年(1946)。戦争で枚方遊園は農地になっていた。菊人形展の一式は千里山遊園(大阪府吹田市)に避難させていた。千里山遊園は、大正11年(1922)に創立した「新京阪」が所有していたのである。戦後、ひらかた菊人形は千里山で復活した。

         

5度目は、昭和24年(1949)。枚方へ戻った。

       
         

「あって当たり前」であるために、菊培養師はそのたび、人形菊がへそを曲げてしまわぬように心を砕いてきた。

         

京阪園芸には、過去の試練に打ち勝った、頼もしい経験と栽培技術の積み重ねがある。

       

文章:川井 ゆう

1964年大阪府枚方市生まれ。菊人形研究者。博士(家政学)。
著書に『わたしは菊人形バンザイ研究者』(新宿書房)がある。

〇出典:大阪府 枚方市役所 観光にぎわい部 観光交流課「ひらかた菊人形今昔」 〇編集協力・資料:京阪電気鉄道/ひらかたパーク 〇制作:京阪エージェンシー