京阪園芸の伝統 – 005 日本におけるバラの神様

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京阪園芸の伝統Traditional Culture

ひらかたパークに東洋一のバラ園を築いた「日本におけるバラの神様」岡本勘治郎氏。
京阪園芸と共に日本のバラ業界をけん引した歴史。
北川 陽子氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.16 2019年秋冬号)からの転載記事でご紹介致します。

日本におけるバラの神様

戦後の混乱期を抜けた日本が、高度成長の波に乗り始めていた昭和30年(1955)。当時すでに菊人形で知られていたひらかたパークに、3,000余坪の広さを誇るバラ園がオープンした。京阪電鉄と朝日新聞社が「東洋一の大バラ園」を作るべく、バラ栽培の監督を依頼したのが、当時、日本人でただひとりの英国園芸協会会員であり、バラの育種研究で実績のあった「日本のバラの神様」、岡本勘治郎その人である。

岡本が生まれたのは、明治6年(1899)の京都。祖母が友人からもらってきた一鉢のバラがきっかけで園芸の道を志し、地元を離れて千葉園芸高等専門学校(現・千葉大学園芸学部)に進学。卒業後は単身フランスとイギリスに4年間留学し、園芸とバラを学び続けた。帰国の際、岡本は多くのバラと膨大な関係書籍を日本に持ち込み、昭和2年(1927)、関西で大日本薔薇会を設立。昭和5年(1930)には京都市伏見区の自宅敷地内に1,500坪の「桃山花苑」を開設し、バラの育種と研究を始める。岡本のもとには、バラ研究者をはじめ多くの人が訪れ、京成バラ園の「ミスターローズ」こと鈴木省三氏も書生として住み込んでいたという。

しかし、時代は大戦を迎え、せっかく築いたバラ園もイモ畑への転換を余儀なくされる。岡本も園芸講師として従軍するも、多くのバラを密かに山の手へ移植・避難させ、まさに日本のバラ界の「萌芽」を守り抜いたのだった。

かくして激動の時代をバラとともにくぐり抜けた岡本は、ひらかたパークの大バラ園で水を得た魚のようにバラの仕事を展開していく。同園はパーク来園者向けアミューズメントである一方、岡本が理事を務めていた「朝日バラ協会」の研究園でもあった。ここで九州大学の有隅健一氏ら研究者とともに、彼はかねてより構想していた「日本の気候に合うバラ」の育種に精力的に取り組んでいる。昭和48年(1973)に作出し、今なお日本のバラとして世界各国で愛されている「ブラックティ」をはじめ、数々の傑作がここで誕生している。

文章:北川 陽子(編集者)

京都市生まれ。大学卒業後、出版社や印刷会社で多様な分野の経験を積み、
編集者・コピーライターとして活躍中。
音楽と相撲と園芸を仕事と人生の活力としている。