京阪園芸の伝統 – 006 岡本のもとに集うバラ界の巨人たち

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京阪園芸の伝統Traditional Culture

ひらかたパークに東洋一のバラ園を築いた「日本におけるバラの神様」岡本勘治郎氏。
京阪園芸と共に日本のバラ業界をけん引した歴史。
北川 陽子氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.17 2020年春夏号)からの転載記事でご紹介致します。

岡本のもとに集うバラ界の巨人たち

昭和30年(1955)に完成した、ひらかたパークの「大バラ園」。その一角に建つクラブハウスに、同バラ園の監修者であり、京阪園芸創業時の取締役でもあった〝バラの神様〞岡本 勘治郎は毎日「出勤」していた。クラブハウスは岡本が理事を務める朝日バラ協会の研究所とゲストハウスを兼ねており、連日のように全国から研究者や著名人らが訪れていたという。
その顔ぶれは、建築から流通まで多様な企業関係者、芸能・文化系の著名人まで多岐にわたっていたが、学究肌で電車移動中も本を手放さないタイプだった岡本とウマが合うのは研究畑の人物が多かったようだ。
京都帝国大学農学部園芸学教室初代教授、農学部長の菊池秋雄氏(後に名誉教授)や、同教室教授、農学部長の並河 功氏(後に名誉教授)など親交の厚い〝バラ仲間〞は多かったが、特に、岡本のバラ育種におけるパートナー的存在として10年近く岡本のもとで研究を続けたのが九州大学の大学院生であった(後に鹿児島大学名誉教授)有隅 健一氏である。

新進気鋭の若手研究者として、バラの花色を遺伝生化学的に分析し、育種に応用する研究をしていた有隅氏は、枚方に来てほどなく「光るバラ」の作出に成功。これは昭和35年(1960)正月の朝日新聞で紹介され、世間を賑わせたが、通常より花が小さく残念ながら登録までには至らなかった。
しかし、この試みが平成2年(1990)、オレンジの蛍光色に輝く新品種「鶴見’90」の誕生へとつながったのは間違いない。また、有隅氏は京阪園芸にとって念願の農林省(現在の農林水産省)品種登録第一号となった名「ブラックティ」の作出にも大きく関わった人物である。かくしてバラとバラにまつわる人脈に囲まれ、バラの研究に明け暮れる岡本だったが、仕事場のみならず自宅にも1500坪のバラ園「桃山花苑」を設け、自宅内では欧州留学時に持ち帰った膨大なバラ関連の蔵書に囲まれていたというから驚きである。

現在のように簡単にさまざまな情報にアクセスできるわけではなかった当時、海外の先進的な知識が詰まった書物に憧れ、書生として下宿しながら花苑の手入れを手伝う学生は多かった。

そして、その中には後に「ミスター・ローズ」と称された京成バラ園の元所長、鈴木 省三氏の姿もあったという。鈴木氏は岡本が『実際園芸』誌で書いた連載記事を読んでバラ育種への思いをかき立てられたと述懐している。 バラに対する飽くなき探究心と、その志に周囲をどんどん巻き込んで動かすエネルギッシュな存在感。バラに関わる人、そして作出される品種の中に、岡本の意志はどのように受け継がれていったのか。引き続き追いかけてみたい。

文章:北川 陽子(編集者)

京都市生まれ。大学卒業後、出版社や印刷会社で多様な分野の経験を積み、
編集者・コピーライターとして活躍中。
音楽と相撲と園芸を仕事と人生の活力としている。